NARUMIのはなし

1946年 NARUMIは誕生しました。

1946年 NARUMIは誕生しました。

敗戦後、私たちは まだ瓦礫が残る焼け野原 名古屋鳴海の地で「笑顔あふれる幸せな家族の団欒」を夢見ていました。「幸せな食卓を取り戻したい、創造したい」という切なる想いは、当時の我々を奮い立たせました。私たちにとって「幸せな食卓」は平和の象徴です。先人たちの思いは、変わることなく現在まで脈々と受け継がれ「いつの時代にも変わらずにある食卓の幸せ」を追求し続けています。

日本の歴史に「なるみ」の名が現れたのは、300年ごろ日本武尊が東征の折に読んだ歌の中です。鎌倉時代には、京と鎌倉をつなぐ街道の要地として、戦国時代には、勢力争いの要所となり、その後 東海道五十三次 四十番目の宿場町として栄えました。また、伝統産業の鳴海絞りは古くからその名を全国に知られています。江戸時代初期には、鳴海の里においても鳴海焼が焼かれた歴史があり、幕末の頃にも焼物を焼く窯の煙が上がっていたといいます。「なるみ」は古くからのやきものの産地でありました。

その鳴海の地に、1938年 名古屋製陶株式会社が、ドイツ式陶磁器の新工場を建設し、陶磁器の生産を始めました。住友金属工業株式会社が軍需省の要請により航空機の空冷気筒冠の製造をするために、この陶磁器工場を買い受けたのは1943年のことです。

これによって名古屋製陶鰍フ陶磁器生産用の設備は次々に撤去され、航空機部品を生産する設備が設置されていきました。
しかし、その2年後 1945年敗戦とともにこれらの設備は全く無用の長物となりました。戦地で息子を亡くし、夫を亡くし、空襲で幼い娘や息子を亡くした人々。もう二度とない家族との団欒のひととき。日本中が悲しみに包まれ、私たち従業員もそれぞれの悲しみを抱き、混乱と虚脱、そして窮乏にあえぎ、生きていくのに精一杯の日々でした。

そんな中、工場の片隅にわずかに残された名古屋製陶所時代に作られたカップと茶碗が私たちに平和への思いを呼び起こしたのです。今はもう、かえることのない家族への想い。まぶたに焼きついた幸せだったころの食卓。もう二度とこんな悲しい想いをしないために、わずかな設備と技術者を受け継ぎ平和への願いを込め1946年 NARUMIとしての創業決意したのです。

まっ黒な飯茶碗

まっ黒な飯茶碗

創業を決意したものの、陶磁器を作る設備は何もありませんでした。 陶磁器を作るには、窯、ろくろ、乾燥炉 等 様々な設備が必要です。 しかし、1946年当時、製陶設備は撤去され跡形もありません。すべて自分たちで新しく作り出さなければなりませんでした。NARUMIに残っていた技術員が名古屋製陶所に見学に行き、ろくろやその他の機械をスケッチし、図面におこしたり、 名古屋製陶引継ぎの熟練工たちが、「高さはこれくらい」と手で指し示す寸法にものさしをあてたり、カンでろくろの回転数を決めていったり苦労の連続でした。 幸いにも、鋳物設備、工作設備は、木工設備は保有していたため、製陶設備は自分たちで作り出すことができました。

設備は着々と準備されていきましたが、戦後の混乱期に原料を入手することはとても困難なことでした。たまたま、排水用の沈殿槽に、名古屋製陶所時代の土がたまっているのを発見。これをすくい出して初窯に入れる飯茶碗の素地をつくることにしました。 初窯には、昔からの習慣に従い左馬の絵を描き、そのほか各自の好きな絵を描いて試作の準備をしました。

1946年2月26日 二メートルの試験窯に火が点り、三月早々 初窯の窯出しをしましたが、戦争中三年間も排水用の沈殿槽にたまっていた土を使ったので 焼きあがった飯茶碗には驚くほど多くの黒い星(不純物による黒い小さな汚れ)が出ていました。白い磁器とはとてもいえないものでしたが、それでも全NARUMI社員が一生懸命努力をして機械や設備から作り出し、初めて陶磁器として焼かれた試作品だけに、一同の感激はひときわ大きなものでした。そのまっ黒な飯茶碗の経験は、その後白い磁器をつくりたいという思いへとなり、その20年後ボーンチャイナという形で皆様のおてもとにお届けできるようになったのです。

帝国製陶所と名古屋製陶所

帝国製陶所と名古屋製陶所

鳴海製陶の前身は、帝国製陶所や名古屋製陶所と言われることがあります。正確には、全くの別会社です。戦時中、住友金属株式会社が、軍需省の強い要請により名古屋製陶所の鳴海工場を買い受け、航空機部品を作るようになりました。この時点で名古屋製陶所の鳴海工場は、住友金属工業になり、その関係は全くなくなっていました。

しかし、戦争が終わり航空機部品の生産が必要なくなったとき、片隅に残されていた名古屋製陶所時代のカップと茶碗が、私たち(当時住友金属工業 名古屋軽合金製造所鳴海支所の従業員)に平和への想いを呼び起こさせ、磁器メーカーとして再出発させたことはまぎれも無いことです。名古屋製陶所時代の従業員が住友金属に移っていたことや名古屋製陶所へ見学に行き、その指導を受けたということから前身と言われることになったのかもしれません。

帝国製陶所と名古屋製陶所

名古屋製陶所は、寺澤留四郎氏による帝国製陶所の設立がそのルーツになっています。寺澤留四郎氏は、明治13年ごろから陶器貿易の道に入られ、自らも陶器貿易を手がけられていた実業家です。

神戸・常滑・名古屋などで陶器の貿易事業をされていましたが、貿易商として終始することに満足されず、白生地に憧れその製造に着手。遂に明治44年帝国製陶所を設立されました。 しかし、その年の夏に訪れた台風は、無残にも建築間もない工場を吹き飛ばし、工場は大きな被害を受け製造業を続けることが困難になったのです。

その復興に奔走するも、独力では復活することができないほど打ちひしがれてしまいました。この苦境をみた名古屋財界は、寺澤氏に出資を決定し、合資会社名古屋製陶所を設立、社長に寺澤氏をあてました。その後大正から昭和初期にかけてディナーウェアの輸出は、日本陶器と肩を並べるまでに発展していきます。

帝国製陶所と名古屋製陶所

昭和11年各地に散らばっていた工場を集約するため、名古屋鳴海伝治山に 56000坪の土地を購入し、昭和14年1月竣工、陶磁器食器の生産を開始するも、第二次世界大戦となり、輸出陶磁器の生産ができず。昭和18年軍需省からの切なる要求により、鳴海工場を住友金属工業株式会社に譲り、解散となりました。

その後、寺澤増太郎氏を中心に、新名古屋製陶株式会社を設立し戦後いち早く貿易を再開するも、経済状況の変化、競争の激化により昭和44年名古屋製陶所はその幕を下ろしました。 以上が、NARUMIと名古屋製陶所、帝国製陶所についてのお話です。我々は思います。もし寺澤氏が、白磁に憧れ、自ら白磁の生産を始めなければ今のNARUMIは無かったかもしれません。寺澤氏の白磁への強い思いは、今もNARUMIのボーンチャイナへの想いにつながっている気がしてなりません。

3本のメタセコイヤ

NARUMI本社には、高さ30メートルの3本のメタセコイヤの木が並んで立っています。メタセコイヤは、1946年中国四川省で発見されるまで生きているものは知られていませんでした。それまでは、化石でしか知られておらず絶滅したものと思われていた木です。

300万年から100万年前頃までは多く生えていたそうですが、その頃からあまり進化はしておらず“生きている化石”といわれています。和名をアケボノスギといいます。針葉落葉樹で、春には花を咲かせ、夏には青々とした葉を生い茂らせ、秋にはオレンジ色に紅葉します。冬が近づくと短枝ごと葉を落とし春を待ちます。いつも変わらずそこに立ち、私たちに季節の移り変わり知らせてくれています。

NARUMIの従業員が、何気なく眺めているこの木は、日本が「もはや戦後ではない」といわれたころの1957年に植樹されました。平和の願いを込めた創業、まっ黒な茶碗を初めて作ってから10年。何とか磁器らしい磁器をつくれるようになったころ。創業からそれまで茶碗づくりに心血を注いできた従業員がその想いを忘れぬようにと残していってくれた木です。植樹されてから50年。3本のメタセコイヤは、高い空からその想いを忘れぬようにと 今もNARUMIブランドを見守り続けています。

3本のメタセコイヤ

画伯たちとの出逢い

NARUMIは、多くの皆様に「幸せな食卓」お届けしたいと思い、NARUMI製品をお届けできることをめざしてきました。皆様のおそばに何気なく置いていただいていますが、気取るわけでもなく、肩肘はるわけでもなく、親しみのある あたたかい “いいもの” それがNARUMIの製品です。そのためには、絵柄を付けるための転写紙という部品をつくる技術が必要でした。 昭和26年印刷の技術を研究するため、NARUMIの技術員が、とある印刷工場に出かけたときのことです。 画伯たちとの出逢い

小磯良平画伯の「バレリーナ」のカレンダーの印刷を見ていた技術者が、陶磁器の印刷に応用できないかと思いつき、絵画の繊細で微妙な筆のタッチ、色のボケ具合がどのようにでるのか調査と研究を重ねました。 皿に焼き付けてみると、今まで陶磁器では見たこともない美しい調子のものが出来上がり、小磯画伯にお見せしたところ激賞を受たことを機に更なる研究を続け印刷技術を向上させていきました。



当時、額皿を作るのにご協力いただいた諸先生方は、 小磯良平・田村孝之助・伊藤継朗・坂本繁次郎・和田英作・小林和作・水谷清 ・梅原龍三郎・杉本健吉・水野流人・辻親造・坪内節太郎・皆川泰蔵・小嶋善三郎 ・林武・宮本三郎・伊藤深水・関口俊吾・高橋忠弥・中川一政・小川博史・宮田重雄 ・鈴木信太郎・宮脇晴・藤田 治・清水・山下清・田崎広助・高光一也・上原欽二 ・佐伯米子・宮脇あや・小島功・出岡実・松本弥太郎・和田三造・三岸節子・石川滋彦 ・小杉放庵・鍋井克之。

たとえば、山下清画伯は百貨店で山下清展の開催のため名古屋に見えたときに、一週間NARUMIの二階応接室で額皿の製作をされました。また、宮本三郎画伯の「二人の少女」の楕円の額皿は、そのまま「週間朝日」の表紙になり話題をよんだほどでした。

昭和三十四年には、皇太子殿下ご成婚の儀が行われ、両殿下ご夫妻が伊勢神宮へ参拝されることになり、その際殿下のご学友の皆さんが杉本健吉画伯に委して、肉筆の額皿をお作りし、お祝いとして殿下に献上することにもなりました。こうした出逢いとともにNARUMIは転写紙技術を手に入れていったのです。

これの経験と技術が後のボーンチャイナの特性を十分に生かすことになるとは、その当時の我々は知る由もありませんでした。 ボーンチャイナの特徴のひとつに、繊細な線をシャープに絵付けできるという特徴があります。硬質磁器と焼成方法が違うためです。しかしその特徴を生かすためには、高度な印刷技術が必要であることも忘れることができません。

ボーンチャイナ生産に当たり、この時の経験やそこで培った技術が今もNARUMIボーンチャイナの高い品質に受け継がれています。また、NARUMIでは、その技術を食器以外の様々な工業材料製品の開発にもつながっています。

ボーンチャイナとの出逢い

ボーンチャイナとの出逢い

NARUMIが、ボーンチャイナをつくりはじめたのは昭和40年のことです。当時ボーンチャイナは日本陶器(現ノリタケ)では製品化に成功していましたが、多くの皆様のお手元にお届けすることにはなっていませんでした。

当時の陶磁器業界では、こう言われています。「瀬戸物とできものは大きくなったら潰れる」また、「ボーンチャイナに手を出したら身上を潰す」といわれたほど、かつてボーンチャイナは作ることが難しい種類の磁器でした。そんな中、NARUMIはあえてボーンチャイナに挑戦します。その種は、初窯試作のまっ黒な飯茶碗から始まっています。中国製の白磁がヨーロッパで宝物のように扱われたように。ヨーロッパの王室が白磁に魅了されたように。

我々も白い磁器を追い求めていたのです。磁器を作る人々の多くは、みな真っ白な器を夢見るのかもしれません。平和の象徴である「幸せな食卓」のあたたかさを追い求めていく時、ボーンチャイナの乳白色の白い輝きは我々を魅了してやみませんでした。ボーンチャイナで世界中の皆様に「幸せな食卓」をお届けしたいというその想いは、「身上を潰す」といわれた製品に、あえて挑戦する想いを起こさせ、遂にはその生産にふみきらせたのです。その意味では、NARUMIとボーンチャイナの出逢いは、偶然ではなく必然であったといえるでしょう。

ボーンチャイナを作ることの難しさの一つに、成型(形を作ること)という工程があります。磁器を作るには、粘土にこしとねばりがないと粘土を良い形にすることができません。ボーンチャイナは、粘土に骨灰というものを混ぜ合わせます。わかりやすいイメージでは、小麦粉を混ぜてある粘土で、茶碗の形をつくるようなものです。

また、硬質磁器などとは焼成(窯で焼くこと)方法が違うため、窯に入れると縮む度合いや収縮による曲がりが、硬質磁器より大きく、100個のお皿を作っても50個以上も不良品になるという製品でした。 しかし、NARUMIは、最後まであきらめませんでした。何故なら我々にとってボーンチャイナの温かみのあるやさしい乳白色の素地は、ぬくもりを伝えるこころの温度に他ならなかったからです。それこそが、我々が目指す幸せの象徴なのです。 NARUMIボーンチャイナの少し黄色身を帯びた乳白色の温かみは、「幸せな食卓」お届けするという夢を追い求めるために神様からいただいた大切な贈り物なのです。

ジャストフラワーとミラノ・パステルガーデン・シルキーホワイトそしてスタイルズ

ジャストフラワー

昭和40年以来NARUMIボーンチャイナの歴史の中には、多くの皆様方に評価いただき、NARUMIを育てていただいたいくつかのパターン(絵柄)があります。 その代表的なパターンのひとつがジャストフラワーです。 当時を振り返り、デザイナー藤掛鋼三はこう語ります。

ジャストフラワーの思い出というと、スケッチを描き終えて、ほっとして窓からみたハドソン川に沈むとても美しく夕日を思い出します。極寒のニューヨークに行ったのは、昭和48年1月でした。初めてのニューヨーク出張で見るもの聞くものすべてが新鮮に映り、気分も高揚していたのを覚えています。

取引先様のバイヤーと今までに無いテイストの洋食器をつくろう意気込んでニューヨークまできたものの、そうそうできるものではありませんでした。103丁目ブロードウェイのアパートメントホテルの一室で、毎晩 夜中の2時や3時までスケッチをしたものです。ベッドはあまり使わなかったと思います。朝起きるといつもスケッチの紙の上という日が何日も続いていましたからね。

やっと書き上げた数百枚ものスケッチをバイヤーにみせると、水彩タッチの絵柄がバイヤーの目にとまりました。自分としてはラフスケッチのつもりで描いたこのタッチが良いと聞いた時は、驚きとともに、本当にこのタッチが商品としてお客様のお手元に届いてよいのかと正直戸惑いを感じながらも、トントン拍子に話は進み、販売の仕方や店頭でのディスプレイのアイデアと次々と商品化へと進んでいきました.。

店頭に並ぶや否や瞬く間に皆様にご支持をいただき、海外だけでなく日本国内でも大変な反響をいただきました。洋食器だけでなく、耐熱食器にも使われ、デザイナー冥利につきる私の代表作となっていきます。今当時を思いかえすと、ジャストフラワーのオレンジやイエローの色彩は、ハドソン川に沈むあの美しい夕日に私が魅せられたせいかもしれません。

NARUMIの中では、絵番 9682 がミラノ。絵番 9968 がシルキーホワイト。NARUMIでこの二つの絵番を知らない従業員は新入社員くらいのものです。それほど我々NARUMI人にとってかけがえのないパターンであり絵番です。

ミラノ

「ミラノ」シリーズは、昭和47年(1972年)カップ&ソーサーからスタートしたしました。発売以来 数多くの方々のご支持により、たくさんの人に愛される名品に成長しました。

梅の花をモチーフに更紗調にアレンジされたデザインは、洋食器ファンの方々からも多くのご評価を頂き、NARUMI出荷数量を日本の総人口で換算すると「10人に1人は持っている」と言われています。

実はこの梅の花は伝統的なモチーフで、中国から日本の有田・伊万里に影響を与え、海と陸のシルクロードを渡り、ヨーロッパに伝わったと言われています。「ミラノ」はこの伝統的モチーフを基に、NARUMI独自の絶妙なブルーの濃淡とアレンジを与え、その様式を完成させ、時を超えた逸品となりました。発売から30年以上続くロングセラーデザインです。

長島伸夫デザイナーと長島氏デザインのシルキーホワイト

昭和50年(1977年)に誕生した「シルキーホワイト」シリーズ。小花のレリーフが特徴のこのデザインはNARUMI長島伸夫デザイナーの、留学経験がエッセンスになっています。デンマークの美術学校へ通う中で感じた、人と自然のあたたかな触れ合い、春の野原で目にした感動的な風景を器に再現したいと考えたことがきっかけになりました。小花のモチーフを図案化するのと同時に、シルエットを完成させるために、花や木、枝のスケッチを重ね、何度も何度もモデルを作っていったのです。この長島デザイナーの熱意は原型師や製造スタッフに伝わり、いいものを作りたいという情熱が生まれ、昼夜を問わず熱心に意見を戦わせた匠たちの試行錯誤の末、誕生しました。

パステルガーデン

「シルキーホワイト」から遅れること6年。1983年「パステルガーデン」が生まれます。発売当初からご評価いただき、「ミラノ」「シルキーホワイト」を上回る評価をいただいたパターンです。 ソフトで暖かみのある色合いは、NARUMIならではのもので、その後しばらくの間インハウスのデザイナー達は、第2の「パステルガーデン」を目指し、淡いオールオーバー柄を書き続けたほどです。

実はこのパステルガーデン、具体的にモチーフなった花はありません。すべてデザイナーの想像上の花なのです。最終デザインに至るまでに、何十枚ものデザイン画が描かれています。レイアウトを変え、花の微妙な表現の違いを試し、色の変化を試みるという努力の結晶がこのパターンを産み出しました。

20数年に渡り、NARUMI製品の象徴とまでいわれたパステルガーデンは、“人が心に感じる様々な種類のお花の美しさを、ひとつの象徴としてまとめたデザインなのです。

スタイルズ

2002年に誕生した「スタイルズ」シリーズは、住まいや生活全体のバランスを楽しむ方へ「現代の器」をテーマに誕生しました。

和・洋・中華・エスニック等多種多様のお料理が登場するようになった現代の日本の食卓。ライフスタイルの変化に対応出来るスタイルズの器は現代の生活にピッタリなものでした。おかげさまで今年で5年目を迎え、和洋を超えた新しい新感覚のスタイルはたくさんのお客様の食卓を彩っています。

お料理を楽しみ、盛り付けを楽しみ、コーディネートを楽しむ心を満たすスタイルズ。今までも、これからもライフスタイルと共に成長します。

いいものとの出逢い

いいものとの出逢い

“いいもとの出逢い”とは、鳴海製陶のキャッチフレーズとして昭和五十年初めから使われている言葉です。当時は、テレビコマーシャルや雑誌広告などでも幅広くつかわれていました。 「いいもの」とは、漢字でいう「物」のみを指しているものではありません。ここには、「モノ」と「コト」の両方の意味が含まれています。「モノ」とは品質に自信を持った製品そのもののことであり、「コト」とは、お客様皆様がNARUMIの製品を通じて体験していただけるすべての「コト」をさしています。

また、“いいものとの出逢い”という言葉の中では、「出会い」や「出合い」ではなく、あえて「出逢い」という文字を使っています。このキャッチフレーズが作られた当時、この「出逢い」という文字の中に、「偶然出会うのではなく、能動的に、自発的に出逢いを作り出す」という意味を込めています。 我々は、いいものを考え、いいものをつくり、いいものをお届けする。そしてお客様皆様にいいものを体験していただくすべてのプロセスを通じて、“いいものとの出逢い”をお届けし、皆様の幸せのお役に立ちたいと考えています。